6/29/2015

結婚を「認めてもらう」ということ

ここニューヨークで、結婚の準備を進めている中で感じる、結婚を「認めてもらう」ということ。

もし私が日本で日本人と(一般的な)結婚をしていたら、恐らく感じなかったであろう、この「認めてもらう」ことの重さ。そしてそれを感じられることをありがたく感じるようになった。

私の彼は、カトリック教徒であり、私たちは10月にカトリック教会にて挙式をする。つまりは、priest(司祭)のもと、カトリック教会に私たちが夫婦となることのお許しをもらう。そこには目撃者の同席も必要になる。

そして実際のカトリックでの挙式の前に必要となる、Pre-Canaも今週末受けてきた。これはカトリック教会における結婚について事前に行われる2日間に渡った勉強会のようなもので、カトリック教会で結婚式を挙げる場合は必ず受けなくてはいけない。要は、「結婚する覚悟はできていますね?」といった感じ。

私はカトリック教徒ではないので、私たちの結婚はinterfaith(異宗教間)の結婚としてカトリック教会では扱われる。私の場合はagnostic(無神論者)であり、ややこしいことはない。私さえカトリック教会で式を挙げることに同意していれば、教会側は受け入れてくれる。例えばPre-Canaにおいても、お祈りの場面は多くあったが、私にはそれは要求されなかった。それでも、結婚をするということについての基本的な考えはカトリックでない私にも響く部分は多く、持ち帰る内容はたくさんあった。

しかし、彼はこのPre-Canaに私が同行することに何度も何度もお礼を言っていて、貴重な時間を遣うことを申し訳ないとさえ言っていた。そもそも教会で式を挙げるという決断自体を彼は心から感謝してくれている。「自分の信じる宗教で結婚をしてくれる」ということにありがたさを感じてくれているのだ。それは彼の家族もしかり。

私は、特にこだわりはないので全く難しい決断ではなかったのだが、それでもありがたがられる分もう少しこれについて考えるきっかけになる。

司祭のもと結婚を「認めてもらう」式をすること − そのことの意味。

アメリカではクリスチャンというと、多くがプロテスタントを指す。そして信心は人によって異なり、特に東部のニューヨークは、あえて宗教度の低い式を求める人も多い。しかしイタリア系の母親を持つ彼はカトリックであり、教会にはめったに行かないながらも、結婚は当然カトリックで、といった気持ちがあったようだ。教育もしっかり受けているし、式で司祭に読み上げてもらう聖書の文言の選択も、やはり彼なりに考えはあるよう。そういった部分は当然私も尊重するし、そういった大きな意味を持つことに私が関わることを受け入れてくれていることに、かえって私はありがたさを感じるくらいだと思うようになった。

私には今までの人生で関わりのなかったカトリックの世界で、結婚だけを「認めてもらう」のは少し調子がよ過ぎるようにも感じるのだ。しかし、それを受け入れてもらえることを、彼や彼の家族、そしてPre-Canaを通して感じ、それが感謝の気持ちに変化した。

彼は、私にプロポーズする際も、カトリックには直接関係ないが、アメリカ式の伝統を重んじた。私にプロポーズをする前に、私の両親に許しを得たのだ。それが、アメリカの正しい方法だから、と。プロポーズを受けた後に、家族はみんな先に知っていたことを知り、驚いたりもした。ルールに過ぎないが、やはり結婚は二人だけのものではなく、周りの許しや認めてもらうということが重要だと考える彼なりの行動だと思う。

誰の信心でも誰にありがたがれるわけでもなく、教会で式を挙げるケースが多い日本の結婚式を見てきたが、それらは、本人達が望む場所ややり方で、多くの人が祝福する中で式を挙げることが「認めてもらう」ことに繋がっているからだと思う。しかし、やはり宗教や教会というのは歴史や伝統、そして多くのしきたりがある場所であり、そこで本来の形で「認めてもらう」ことを重んじる人たちにとっては、全く次元の異なる意味を持つ。

それを心から望む彼と、そしてそれを喜んでいる彼の家族の同席の中、特定の権威のもと「認めてもらう」式を挙げられることは、やはりありがたがれることではなく、ありがたいことだと感じる。



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6/24/2015

ブランドの存在と価値の比例

毎日色んなことが起きたり、語られる、ファッションの世界。

クリエイビティとビジネスの狭間でどっかりと身を据えるように見えるファッション業界だが、語られるニュースは、明らかにビジネス寄り。うねうね婉曲し、時に時空も空間も超えるような動きを見せるファッション業界のあれやこれ。

その中で、いくつかのニュースを通して、私たちがブランドの価値を無意識の内に定めてしまっている現象があるのでは、と感じた。

例えばこのニュース

courtesy of Tom Ford and Style.com

"Net-a-Porter Will be the First Site to Sell This Major Designer's Clothes"

ラグジュアリーのマーケットにおいて、事実上世界最大のオンライン プラットフォームを持つNet-a-Porter が、この度初めてTom Fordのメンズ/レディスのアパレルをオンラインで販売することになった。Tom Fordは自身のオンラインの販売チャネルを持つが、現状 小物とビューティに限られているとのこと。

ラグジュアリー ブランドでまだアパレルのオンラインに踏み切っていないブランドは多くあるが、このTom Fordのように、オンラインへの進出はラグジュアリーでも避けられなくなってくる予感がする。

マス マーケットからはこちらの記事

courtesy of New York Times

"Gap's Fashion-Backward Moment"

Gapはこの度、アメリカでのマーケットの大きな縮小を発表した。つまりは、多くの店を閉店し、そして大きなレイオフを行う。これの完了により、Gapの店舗数は2000年のピーク時の40%まで減少することになる。New York Timesのこの記事の分析によると、この背景には、やはりZara、H&M そしてUniqloといったライバルの存在があるという。そしてこの一言。

「Gapは時代遅れ」

例えばZaraの強みは、(ランウェイを模した)最新のデザイン、グローバルに自社工場を持ち小ロットで早い回転の生産、それを手の届く価格で提案するというところ。

一方もっとベーシックなアイテムとなると、Uniqloの伸びは無視できない。ハイテク素材の使用による品質における信頼、Jil SanderやPharrell Williamsとのコラボレーションといった付加価値がある。

つまりはGapは市場における立ち位置を失ってしまっている。ビジネス的にも、アイテム的にも。

そしてこの現象はGapに留まらず多くのアメリカン マス ブランドに見られるという。Abercrombie & Fitch、 American Eagle そしてその少し上に位置するプレミアム ブランドであるJ.Crewも。

どの国のビジネスでも同じだが、こういった状況に陥るととられる戦略 - 「自分の国で飽きられたら、他の国に売りに行く」

ただ、ZaraもH&Mも、グローバルで成長を続けているブランド。Uniqloもグローバルでの利益が大きくなっている。そこに、「時代遅れ」のアメリカン ベーシックが入り込む余地はあるのか。

事実、ニューヨークにいて、Zara、H&M、そしてUniqloのエクスポージャーはハンパない。

ミッドタウンを歩けば、ブロックごとにこれらのお店を見かけるような状況。ラグジュアリー ブランドの隣にファスト ファッションが並ぶ現象も多く見られる。

関連するニュースとして、H&MはいくつかあるFifthe AvenueのH&Mの店舗であったテナントを、自社の姉妹ブランドであるCOSの店舗にするという説。

courtesy of COS

"The Largest COS Ever May Open on Fifth Avenue"
http://ny.racked.com/2015/6/23/8831817/cos-hm-fifth-avenue-nyc

これが実現すれば、COSブランド世界最大規模の店舗になるとのこと。

ちなみに、H&Mブランドの世界最大店舗がHerald Squareにオープンしたばかり。

ラグジュアリー ブランドがオンラインに踏み込み、マス ブランドはハイストリート巨大店舗のオープンが続く。それぞれのマーケットがオーバーラップし、チャネルの選択も多様化し、消費者に対する存在のアピール合戦が加速している感じ。

何が新しいのか、何が画期的なのか、もはやわからない。同じことをし続けるコンヴェンショナルなブランドに安心感は覚えるが、そういったブランドの中でロイヤリティを持って愛せるものを一体どのくらいの消費者が持っているのか。多くの消費者はラグジュアリーもマスも、日によって使い分け、故に、ブランドに対して固定の存在感を求めていない。というか、もはや求めることは不可能に近い。(そもそもこれは消費者の欲求に起因するのかという部分も議論になるが。)

こういったいくつかの事例を見ていて気づくのは、とにかく「存在を感じる場所」は多ければ多い程いいのか、といったところ。ビジネス重視であり、多くの人に見てもらい、存在を認知してもらうこと、その度合いが、結局そのブランドの価値になっている気がする。

左: アピール、右: それから反映する存在の大きさ = ブランドの価値

存在そのものがブランドの価値を大きく左右する。果たしてこれは、ファッションにおいて正しいのか。

ファッションは衣食住の一つでありつつも、自己表現やアートの一部でもある。身を覆う必要不可欠なものがアートであるという、なんとも特異な分野でありながら、その世界を大きくビジネスが占めており、そこで勝ち残らないと未来はない。

この現実は常にそこにあり、そしてあり続ける。

ブランドの存在と価値の比例というのは避けられないのかもしれない。しかしその存在の部分にクリエイティビティへの重きを置く観点を、理想主義的だとしても、忘却してしまうのは悲し過ぎる。


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